東日本大震災 神奈川職員による支援報告

一瞬でがれきの街となった、

 被災地に生きる人々に明日への希望を届けよう!

生活クラブ神奈川では、生活クラブ岩手を拠点として、提携生産者・重茂漁協ならび三陸周辺地域の被災地への支援を目的に、3/24(木)~4/17(日)までを第一弾として、職員を派遣しています。
主な支援内容は①被災地への応急生活物資搬送②提携生産者、被災地住民支援、③被災地の片づけ支援④被災組合員訪問⑤共同購入配送補助⑥その他 です。
以下、現地支援に行った職員からの報告です。今回は、古島優職員、伊藤淳職員、山下晃職員、井野源司職員の報告を掲載します。
 
●報告者:総務部次長 古島優 (3月24日~3月30日)
「被災地会員単協(生活クラブ生協)・生産者・地域復旧・復興への人的支援」を目的に、生活クラブ神奈川から支援の第1グループとして3月24日(木)から30日(水)までユニオン事業部の伊藤淳職員と一緒に被災地での支援活動を行ってきました。岩手県と宮城県の被災地で支援活動を行った内容と感じたことを報告します。(報告書の内容は3/31現在)
 
1.主な支援行程
(1)3/24(木)朝9時(行き)新横浜をトラックで出発(東北自動車道路を岩手に向け出発)
(2)3/24(木)19時 岩手県花巻市の宿舎に到着
(3)3/25(金)岩手県重茂漁業協同組合(主な消費材 肉厚わかめ)と近隣の三陸やまだ漁業協同組合(六ヶ所再処理工場阻止ネットで連携があった漁協)に支援物資搬入
(4)3/26(土)~29(火)宮城県石巻市の高橋徳治商店(主な消費材 おでん種セット)関連の避難所や周辺町内会等への支援物資搬入、高橋徳治商店の本社工場の片付け支援など。
(5)3/30(水)(帰り)宿舎片付け後 JR盛岡駅→秋田駅→新潟駅→東京駅 東北本線および東北新幹線が止まっているため日本海ルートで夜19時東京駅に着いた。(トラックは現地に置いてきた)
重茂漁港(津波で全てながされた番屋の跡)
 
2.被災地に入るまでの様子
(1)24日から東北自動車道は災害支援の通行許可書を持った緊急車両以外の一般車両も通行可能に。
(2)反対の上り車線側には、静岡や千葉県などの消防車や救急車がサイレンを回しながら、また自衛隊の車両が頻繁に交差した。被災地に近づくにつれ物々しい様子を感じ緊張感が走った。
(3)一般車両が入るようになったことで、高速道路のサービスエリア(SA)での給油待ちの長い列ができていた。(市内のガソリンスタンドは長蛇の列で、給油ができない為)
(4)今回の支援中の一番の悩みは、宿泊先と被災地が非常に遠かったため車両への給油が最大の課題だった。
(5)福島県に入ったころから、震災で道路に亀裂が入ったところや東北新幹線の高架の柱が曲がって倒れているところがあり地震の被害の大きさを目の当たりにした。宿泊先でも毎日のように余震があった。
(6)宿泊先の岩手県花巻市内は幸いにも地震での家屋の倒壊というような被害は特に見られなかった。(津波による沿岸部の被害が甚大で、地震での被害はそれほどでもないことが後ほどわかった)
(7)単協からの支援者用の宿泊先は、岩手単協の副理事長のご実家が一時的に不在となる期間を貸していただけたもので、住民は支援者のみで自主管理し集団生活をした。食事は近隣の組合員が交代で3食用意してくれた。(感謝!)
(8)私たちが行った際は、すでに生活クラブ東京の職員が支援を終えて帰った後で、生活クラブ連合会、山梨、青森の各単協からの支援者と古島と伊藤の5人でした。その後、私たちがいる期間に新たに生活クラブのグループ単協から、都市生活(神戸)、愛知、東京、長野2人、埼玉からの支援者が続々と集結してきて、各々が行った被災地の情報交換や生活クラブ岩手の大木専務との連絡を密に明日の行動の確認をした。
 
重茂漁協の「根滝丸」がホームセンターの駐車場に乗り上げられていた。
 
3.岩手県重茂漁業協同組合(主な消費材 肉厚わかめ)と近隣の三陸やまだ漁業協同組合に支援物資搬入
(1)早朝宿舎を出て、岩手の盛岡センターに行き生活クラブの飯能デリバリーセンターから入ってきた「生活クラブの各単協や生産者からの支援物資」を仕分けし、トラック2台に積み込んで重茂漁業協同組合へ出発(支援物資は、遊YOU米、水、卵、りんご、ストーブ、乾麺や缶詰やお菓子、衣類、下着、カセットコンロ、ボンベ、電池など)
(2)盛岡センターから重茂漁業協同組合までは山越えで、片道2時間30分を要し現地に到着。
(3)三陸やまだ町に向かう際、道路を下ったところで、TVで何度も見ている光景が目に飛び込んで来た。TVの画面で見ていたので予想はしていたが、見渡す限りががれきの廃墟の街は想像をはるかに超えるもので、あたかも戦場にいるかのような錯覚を覚えた。
(4)途中重茂で昨年4月開催された「しゃぼん玉フォーラム」で表彰された温泉施設「マース」が見え、鉄筋造りのため建物は残っていたが、各階の窓は津波で破壊つくされ廃墟と化していた。その横には、重茂漁業協同組合所属の定置網船「根滝丸」の大きな船が、あってはならない場所に陸揚げされていた。車はまるでミニカーを見るがごとく木に垂直に逆さまに立っていたり、横転または折り重なっていたりと水の力が如何に強大なものであるかを知った。
(5)重茂漁港は湾になっていて、津波が狭い入口から一挙に漁協施設と集落を飲み込んでいた。重茂漁港と漁協施設をつなぐ橋は流され、漁師が食事をする場所(番屋)も建物の基礎だけになっていた。
(6)津波の被害を想定し、重茂漁協事務所と主力の加工場と冷凍倉庫は
高台にあり、電気が来ていない以外の被害はなく、そのためすでに重機が入っての復興作業が始まっていた。ガソリンスタンドも漁協が管理していて、トラックへの給油を逆にしてもらった。わかめの養殖場は壊滅し船も流されている状況ではあったが、重茂漁協がリーダーシップを取って現地での復興がいち早く始まっていた。
 
避難所での高橋徳治商店社長
(左2人目/左端は青森の職員)
 
4.宮城県石巻市の高橋徳治商店(主な消費材 おでん種セット)への支援物資の搬入と被災者のお風呂送迎
(1)高橋徳治商店の高橋英雄社長が避難している「牧山社務所」への支援物資搬入を片道3時間30分かけて行った。地震発生直後、高橋徳治商店では「津波が来る」という避難指示を受け従業員は各自避難。工場長いわく従業員は1人だけ行方不明だが、避難は速かったのでおそらくどこかの避難所にいるであろうと言っていた。
(2)高橋社長は母親の49日の法要を自宅で行っていて、家族で車に乗って避難したが、津波が押し寄せて来たので車を捨てて逃げて間一髪で助かったとのこと。車はその後流され行方不明。
(3)牧山社務所の避難所には70人ほどが避難していて、高橋英雄社長が中心となって避難所の代表的な役割をしていた。
(4)私たちが初めて行った25日は、震災から14日後であり、その時点では市役所からの支援物資のほか自衛隊が日々避難所を訪問し、最低必要なものは届けられていた。集団生活で3食同じものを食べるのと水道が止まっているので、カップラーメンやおにぎり(コンビニのおにぎり)が多く、栄養面の心配がされていた。
(5)海岸から20分も車で内陸に入った街の中心部には、津波は届いていなく被害も大きくはない。避難所にいる元気な人は買出しも自力でいけるのですが、車が流されていたり、車があってもガソリンが入れられないため、活動範囲が限られていることや情報が十分に入っていないことからの不安を感じていた。
(6)26日~28日は、ワゴン車で支援にいき、支援物資を降ろしたあと避難所にいる方を近くでやっているお風呂屋さんへ送迎をした。ただこのお風呂屋さんも重油がないということで、時間制限の中で整理券をもらった人しか入れなく、ここでも燃料の壁にぶつかった。
(7)かろうじて倒壊から免れた家では、自宅の2階などで寝泊まりして、食事だけを避難所や自衛隊の炊き出しの場所に食べに来ている人もあった。こういう公的に避難所と登録がされていないところが多数点在していた。町内会が機能しているところは、町内会長さんのお宅に支援物資が定期的に届いていたのですが、町内会長さんのお宅が流されていたり行方不明になっているところは、十分な支援がされずに孤立していた。
(8)そういうお宅の前で、トラックの荷台に支援物資を広げたら数人が集まってきた。広げたものは、女性用の下着(男性用は足りていたが女性用が不足していた)、生理用品、ジャンバー、りんごジュースなどでしたが、荷台にスコップやバール、ワイヤーカッター、のこぎり、ブルーシート、衣装ケースが乗っていたのですが、それらを奪い合うかのように求められたので、工具はみんなで使って下さいと言って渡しました。
(9)工具は各家を修繕するためのもの、ブルーシートは壊れた窓を覆い、雨風を防ぐためと暴漢対策ということでした。衣装ケースは、お風呂がわりにすると言っていました。あと欲しいと言われたのは、家を掃除するためのものです。泥を掻き出すための四角型のスコップ、デッキブラシ、バケツ、モップ、せっけん、工具類、長靴、スニーカー、サランラップなどということでした。サランラップは皿に引いて食べた後、捨てるためのものです。現地では1日も早く生活できる準備に取り掛かっていた。
(10)高橋徳治商店は社長の自宅と本社兼主力工場と第2工場(流失)とも、同じ場所にあったためその被害は甚大。
(11)29日は、高橋徳治商店の従業員が本社兼工場に集まって工場の掃除をするということで、従業員15人ほどと一緒に作業をした。1階は海水や下水などが泥の塊となって堆積していて、その中から泥だらけのパソコンや机、椅子を野外に出し、泥をかき出す作業を一日かけて行った。すでに冷蔵庫や冷凍庫に入っている原料や製品が腐敗を初めていたこともあり、なんとも言えない悪臭を漂わせていた。高橋社長は、泥の中から実印を探し出したことを話してくれた。社長室の泥をかき出していたら、社長が津波が連れてきた大きな鯛を拾いあげて、「おまえはどこから来たんじゃ」といいながら外にほうり出していた。(次の支援活動としてポリタンクを持って来て川の水を汲んで掃除用に使えるように次の支援者に引き継いできた)
(12)昼食時、挨拶をした際、私から従業員の皆さんに「生活クラブの組合員は、高橋徳治商店のおでん種セットを食べれる日を待っています」ということを伝えたが、いつ再開が出来るのか見通しも立たないという状況の中で従業員の皆さんはうつむいて聞いてくれた。
 
高橋徳治商店の本社兼工場
(鉄筋で建物はしっかりしているが2階まで泥で覆われていた)
 
5.まとめ
(1)国や自治体に対しては、津波被害を最小限に出来る街づくりへの復興を
①チリ地震(昨年2月28日)による津波被害から1年目となっていたこともあり、海岸線の近くに住み暮らす人には「地震が来たら、人にかまわず何をおいても逃げる」ということが浸透していた。しかし第1波の津波の後に、自宅に戻った方を飲み込んだ第2波の津波が、地平線の彼方から轟音を立てて10m以上の高さで襲ってきたのを避けることが出来なかった。
②帰って来てから石巻市役所のHPを見たら、3/1発行の広報誌にチリ地震を教訓に「災害は忘れたことにやってくる」という特集の掲載があり、不幸にもその発行から10日後に今回の大災害が起こった。
 ③石巻市は、今回の東日本大震災で最も死者と行方不明を出したところで、被害の大きさ以上に生きのびることが出来た人びとへの心のケアが必要であると実感した。
 ④今回のことで感じたのは、海岸に高い防波堤を築いただけでは、津波の被害は防げないということ。何百トンもあると思える防波堤はいとも簡単になぎ倒されていた。石巻市の近くに観光地で有名な「松島」があり、そこは津波の被害が少なかったそうです。無数にある島が津波の波を吸収したことによるそうです。被災地はもとより神奈川の海岸線でも一刻も早い津波対策の見直しが急務であると感じた。
 
なぎ倒された防波堤(三陸やまだ町)
 
(2)『家族がバラバラにならない雇用を被災地で作り出すこと』が必要ではないか
①巨大地震とそれによる巨大津波は、日本列島そのものを2.4m移動させただけでなく、地震発生から30分程度の間に東日本一帯の海岸の町をがれきの町とし、死者・行方不明・避難生活者を含め20万人以上もの人生を一瞬で狂わせた。
②私が被災地を離れる際(大震災後約20日が経過)に感じたことは、支援の在り方が、第2段階に入っていると感じたことです。第1の支援段階が「今日明日を生きるための支援」と考えると、第2段階の支援は「被災者が家族の単位で自立生活を始めることが出来るための支援」に変わって来ていると感じた。
 ③町は壊滅していて、仮設住宅の建設が急がれているが、会社は産業を再開させる施設を失ってしまったため膨大な失業者が溢れることが予測される。
 ④阪神淡路大震災では、震災のため一時的に生産を他の県などに移したが、結果的に地元に産業が戻らなかったと言う。
 ⑤被災者家族を受け入れる自治体は多く出て来ているが、受け入れた人数分の雇用を新たに作れなければ、結果的に地元の人と雇用を取りあうような構造を生んでしまうのではないか。
 ⑥被災者は、住み暮らしていた町で家族と一緒にこれからも暮らしていくことを望んでいた。仮設住宅の建設後は、被災地に雇用を作り出すための支援の必要を痛感した。
 ⑦被災した生活クラブの生産者に対しては、カンパ金を工場再建のために活用し、生産を一日も早く出来るようにして行くと共に、工場が稼働後は消費材を登録米のように年間登録制として、安定的かつ継続的に長期に亘り共同購入していくことが必要と考えます。風評被害で市場流通出来ないものも生活クラブの独自基準に照らしての取組みが必要と感じた。
 ⑧宮城県には生活クラブがなく、そのため今回の支援も岩手から県をまたいでの支援活動だった。戦前、戦後を初め物資が手に入らない時、生活協同組合はその本来の使命を果たしてきた。生協が本来の社会的使命を見失いつつある中で、東日本大震災の復興に生活クラブ生協の組合員、役職員、各W.Co1人1人の果たす役割が問われている。
 
●報告者:事業部 伊藤淳(3月24日~3月30日)
メディア情報のみで現地入りしたので、あまりにも無残な光景に言葉を失いました。土地の形状によって違う被害状況を目に焼き付けながらの支援物資搬送。今後どのような支援が出来るのか?を考えるようになりました。
 
地震により1m地盤が下がったことで、満潮になると海水が上ってくる
3時を過ぎると、道いっぱいに海水が広がっていました。
 
●報告者:山下晃(3月30日~4月5日)
3/30~4/5まで岩手へ支援に行ってきました。テレビで見た被災地に降り立って瓦礫撤去や、支援物資を持込むなど一生の経験だったと思います。
今回の最大の支援は、高橋徳治商店の工場の泥出しでした。2階まで津波にのまれた工場は田んぼの中に入るような感覚でしたがある程度かき出すことができました。高橋徳治商店の自宅前にあった泥もほぼ出すことができました。泥は重く体力勝負でしたが、ほんの少しですが彼らの力になれたように思いました。
 
高橋徳治商店 自宅兼冷蔵・冷凍庫
自宅も1階部分は津波にのまれて瓦礫の山となっていた。
 
高橋徳治商店社長をはじめ従業員へ必要な支援物資は何か
を岩手単協 大木専務が確認している様子です。
 
重茂のわかめ工場
 
製品となったわかめなどの集積工場
 
※こちらからPDFファイルの写真を見ることもできます⇒.pdf
 
●報告者:事業部 井野源司(3月30日~4月5日)
私が震災支援に入ったのは震災の日から20日が経過していました。海岸沿いの街は津波の被害が大きく瓦礫の山で時間が止まっているようにも見えましたが、活動を始めてみると状況は日々変化し対応も日々変わる。地域によって求められることも違い、通信状態も回復していない中、被災状況に応じた柔軟な対応が求められました。
支援活動は津波の影響でヘドロが打ち上げられた石巻の高橋徳治商店本社工場の泥出し、支援物資の供給。丸壽阿部商店への支援物資の供給。重茂漁協関係の避難場所への支援物資の供給でしたが、一週間という短い期間の中で被災した生産者と出会ったことにより、まだ先の見えない状況の中でそこに生きる人たちの力を感じることができました。
地域の復興が始まるのはこれからです。生産者が再建にむけ動き出すのもこれからです。三陸海岸の海の幸をまた私たちの手に届けられるようになるのには継続した支援が必要です。
私たちが「またあの消費材を手に入れるためにどうすればいいのか?」と問い続けることが生産者の再建につながり、地域の復興につながっていくと感じました。
高橋徳治商店での炊き出し風景。社員さんたちがうどんをふるまってくれました。

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